吉田絃二郎の生涯

幼年期

神埼時代〜誕生より幼年期(1886〜1890年)〜心のふるさととしての、豊かな感性が育まれた。
  絃二郎は本名を源次郎といい明治19年11月24日、西郷村莞牟田の母親の実家で生まれた。旧藩時代西 郷村唐香原の台場屋敷に住んでいた絃二郎の祖父長兵衛と父栄作は明治維新後仁比山の祖父の実家に 戻り酒造業を営み栄えたが、醸造米が腐り破産した。明治8年以降、一家は莞牟田を中心に転居を繰り返し 明治19年千代田町・西村忠平氏の借家に住み、筑後川で運送業を営んだ。しかし、石灰荷が水をかぶり船 が焼失したため、明治23年一家は軍港景気にわく遠い他国の町、佐世保へ転居した。

佐賀工業学校時代 (青春期〜1900-1903)

    故郷に学び田園の風物が強く印象づけられた多感なこの時代は生涯の文筆
    活動・人間形成を決定づけた。
 
  明治32年、13歳の春長崎のミッションスクール東山学院に学ぶが中退。明治33年、佐賀工業学校金工科(現在の機械科)に入学。絃二郎は佐賀郡嘉瀬村の親戚(布上熊二郎氏宅)に下宿し、当時水ヶ江にあった佐賀工業学校へ徒歩で通学した。常に成績抜群で特に英語は得意で小説など原書で読んだ。感想集「煙れる田園」に「秋になれば故郷の平原を思う。筑紫の秋は櫨紅葉に燃ゆる。・・・・少年らしい、秋の憂愁を胸に秘めては筑紫の野を歩いていた三十年の昔を懐う。…」と述べているが、それはおそらく西郷・仁比山を中心とした田園の散策であったにちがいない。幼いとき、一家破産という苦渋にみちた故郷での記憶をよみがえらせながら歩いたであろう絃
二郎の胸に疼く心の世界は誰にもわからない。

対馬時代 兵役期 (1906-1908年)

      念願の早稲田大学文学科に入学するが対馬要塞砲兵大隊に入隊。国境の孤島での兵役
     生活をおくる

  明治36年佐賀工業学校卒業後、佐世保海軍工廠に働くが38年1月・向学心に燃える絃二郎は貧苦の中上京を決意し、ついに早稲田大学第二高等予科に入学。39年9月待望の早稲田大学文学部入学。同年、徴兵検査の結果甲種合格。12月1年志願兵として対馬要塞鷄知砲兵大隊に入隊。つづいて、41年見習士官として重砲兵大隊に入る。陸軍砲兵少尉任官。国境の地対馬の練兵は激しかったが、生活は安定し幸福な時代であった。ただ、夜となく昼となく寒い朝鮮風が吹き荒れて、山は鳴り海は吼える玄海の孤島での日々は、度々郷愁に取りつかれることもあったが、これを慰めてくれるのはアルバイト先の東京神田の設計事務所で知り合った女性、後の明枝夫人からの便りや慰問の品々であった。後に、文学者として確乎たる位置づけをした短編小説「磯ごよみ」・「島の秋」はここを舞台としたもので、昭和32年上見坂公園内に、島の秋文学碑が建立され、対馬の人々の絃二郎に寄せる真情が窺われる。

冬の詩       吉田絃二郎=作詞 長嶋曙光=作曲

海は和む!海は荒ぶ!
海の一と色、水平線の夢の一と色、空の眠り!音、波の音、風の音、
永久に滅え、永久に響く海邊の音!
何故に喚く?。何故に泣く?何故に眠る?
知らず。岸に立つ我が心のみ疼く。
滅え行くよ若き日の幻。滅え行くよ、若き人々のいのち。
碧色のなかに、空色のなかに、いやはての波のさけびに、滅えて行
くすべての思ひ。
よみがへるすべての過去の面影。
若き日も、死ねるも、失へるも汀に立てばよみがへる。
はてしなき波のはてより、青空より、懐かしき、悲しきすべての幻は
帰り来。
失へる日もさながらに、失へる時も痛きまでに我が胸にかへり来。
なつかし、心傷るほどなつかし。このままに死ね。
黄昏れて行く波の音。
また明日の日もあり。
されど頃日はたが悲しみをうたはむ。
我がいのちなし。
我が夢もなし。

「島の秋」・・・自作について  絃二郎

「対馬の兵営生活時代に、漫々たる玄海の波を眺め日から日、夜から夜と孤島の山の背をたどりながら行軍をつづけたころ感じた島の印象を叙情詩的な気分で描いてみようと試みた。」 私は、解剖のメスを持つ科学者の眼で人生を見ないで、直感の境に於いて自然と瞑合する詩人の心を持って人生を見たい。この心から出発して静観した私の人生はいつも死と悲哀と流転の相を背景として、刹那より無限に暗い一路を辿っているものであった。

早稲田大学時代 教師・作家期(1909-1934年)

     母校の講師・教授に任用され教育者としての信望をえると共に作家としてもその地位を固め
     作風は一世を風靡した。
 
  明治42年絃二郎は対馬での兵役を終え、早稲田大学英文科に復学。ウォーヅオースの詩を読んで、早稲田辺りの雑木林の中を歩いては青年らしい空想を描いていた。絃二郎は文芸協会に入った。後に戯曲・脚本を書くようになったのは、父に受けた幼いときからの芝居好きと共に、3ヶ月であったがここで演劇の勉強をしたことが大きな素養となった。中でも絃二郎が畏敬していたのは坪内逍遙で、絃二郎のペンネームも逍遙によつて命名されたものである。島村抱月も又絃二郎に大きな影響力を及ぼし「私たちは島村抱月先生を兄とし、坪内先生を父とし育てられた。」ともいっている。友人加能作次郎は、「吉田君は実に真面目で熱心な勉強家だった。学校では何時も首席で通し、特に語学が群を抜いて優れていた。地味で謙遜で衒学的なところや軽薄なところの微塵もない懐しみの深い善い人だった。」と追想している。貧しい中から月々の学費を送るため苦労する両親を思い、絃二郎の心はいつも真面目で正直・純粋に物を考え、受け入れる人であった。明治44年7月、早稲田大学英文科卒業。大正元年秋明枝夫人と結婚。大正3年『早稲田文学』に「磯ごよみ」つづいて大正6年「島の秋」を発表。それが文壇的出世作となる。大正4年7月早稲田大学講師に就任、大正13年早稲田大学教授となり昭和9年3月その職を退くまで18年間子弟の教育につとめ井伏鱒二をはじめ多くの逸材を世に送ると共に執筆活動をつづけその作風は一世を風靡するにいたった。 藤村と並んで絃二郎の名は真実詩人としてとこしえに輝くであろうとうたわれた。

作家時代 円熟期 (1934-1956年)

    昭和9年(49歳)早稲田大学英文科教授を退き自由人として作家活動
    に専念し、日本近代文学の代表的作家となる。

  大正時代に刊行された著書は、大正4年『タゴールの哲学と文芸』をはじめとして30数種の著書に及び、中でもその感想集は多くの人々に愛読され、『小鳥の来る日』は200版を重ねたという。小説・随筆・論評の他、児童文学・戯曲等その文筆活動は大正後半から昭和初期まで、人気ある流行作家として注目を浴びた。数多くの作品が中等教育の教科書に採用され、昭和6年より吉田絃二郎全集(全18巻)・吉田絃二郎童話全集(全5巻)、昭和12年より吉田絃二郎選集(全8巻)と、吉田絃二郎感想集(全10巻)が刊行され、著作集236冊を数えた。その間、昭和12年、明枝夫人死去の悲運にあった絃二郎は、その悲しみをこえ、文筆や講演活動に精力的につとめるが、昭和16年第二次大戦勃発により執筆の制約を受ける。昭和19年より健康すぐれず、20年終戦。吉田絃二郎句集に「山河ことごとく哭すべしけさの秋」の句あり。戦後旧作の復刻、新作発表相次ぐ。昭和27年 佐世保市より市歌選定の相談あり。昭和31年少年少女小説「山はるかに」の最終篇を絶筆とし、4月21日死去。絃二郎の霊は多摩墓地に明枝夫人、その横に養女吉田なつ女と共に静かに眠る。

ふるさと人

  「武蔵なる多摩の川原をあがゆけば ふるさとに似し山を見るかな 20年も前のことです。わたくしは多摩の上流で遊んでこんな歌をうたったことがありました。故郷を出て五十余年、故郷の山川を懐ふの情は、老いるにつれてますます切なるものがあります。しかも故郷の旧知大方は地下の人であることを思ふ時いよいよ耐へがたいものがあります。 それにしても雪はろばろの北山、かちがらす、冬枯れの筑後河畔、お濠のかいつぶり…  郷愁はわきにわくばかりです。」                    郷土誌『新郷土』昭和28年3月号

リ ン ク