唐 津 城

≪唐津城の歴史≫
 文禄4年(1595年)、時の武将豊臣秀吉は唐津に寺沢広高を封じ*1、朝鮮出兵の根拠地であった名古屋城の後詰めの城を築かせました。その後、寺沢広高は慶長5年(1600年)に起こった関が原の戦いの功績によって、秀吉より12万3千石の領土を与えられ、慶長7年(1602年)から7年もの歳月を費やして、現在の地に唐津城を築城しました。
 築城に際しては、寺沢広高自らが陣頭に立ち、九州各地の諸大名の助力を得ての大工事であったそうです。こうやって完成した唐津城は、北は玄界灘、東は松浦川に面し、西側と南側は堀で囲まれるといったいわば水城とも言うべきものでありました。
 しかし、天草も支配していた寺沢氏2代堅高(かたたか)が、寛永14年(1637年)に起こった天草島原の乱の責任を取られ、天草(富岡城)4万石を没収されると、堅高は自害して寺沢氏は2代で断絶してしまいます。その後、唐津城は徳川幕府の直轄地となり、陸海の要衝の地であった唐津城は、徳川譜代大名が頻繁に交替するようになりました。
 慶安2年(1649年)、播磨明石より大久保忠職(ただもと)が8万3千石で入封します。以後、大久保氏2代、松平氏3代、土井氏4代と続き、宝暦12年(1762年)三河岡崎より水野忠任(ただとう)が6万石で唐津城主となります。ちなみに、唐津水野氏4代目が天保の改革を行った水野忠邦です。
 文化14年(1817年)水野忠邦が遠江浜松へ転封すると、それに代わって陸奥棚倉から小笠原長昌が6万石で入り、以後、唐津城は小笠原氏5代の居城として明治維新を迎えます。
*1 封(ほう)ずる…領地を与えて、支配者とすること。